【札幌 弁護士コラム】やっていませんか?意味のない議論、調査、研究

最近、時折思うのが、人の行動に意味付けが与えられていないと行動自体が無意味になるということが非常に多いということです。

 

特に具体的な行動計画がないままに調査したり、研究したり、議論したり、検討したりするということが実は非常に無駄を生じているのではないかと思うのです。

 

例えば、三人寄れば文珠の知恵とばかりに、何をやっていいのかわからずとりあえず集まって話をしようということがあります。

 

そのような場合に成果が上がりやすいといえるのでしょうか。

 

もちろん例えば集まった3人の中に、特に目的主義意識があり、リーダーシップを発揮する人がいればうまく話が進むこともあり得るでしょう。

 

しかし、何の考えもなく、なんとなく人が集まって話をするだけであれば、何となくの議論が始まり、何となく時間が経ったから終わる、帰らなければいけなくなったから終わる、などといった不時着のような着地しかできないことが多いでしょう。

 

また大枠でいえば、日本の未来を考える、世界の経済を考える、地域社会を考える、といった大上段の話をするような場合もこの危険をはらんでいるように思います。

 

すなわち、日本の未来に対してなのかをなそうとする人たちばかり集まってそこで決めたことを具体的な計画に落とし込むような話であれば有益なのかもしれません。

 

しかし、多くの場合はそういった大上段の話の場合に、政治が悪い、経済が悪い、官僚が悪い、教育が悪い、といったような悪いことをあげつらうだけであって、何ら具体的な動きに結びつかないことがほとんどです。

 

一方で、議論をしている側からすると、日本の未来といった大きな対象について議論を行っていることから、何となく良いことをしたといったような感情が起こるため、その議論の不毛さに気づかないことが往々にしてあります。

 

もちろん、そのような議論が全て悪いと述べているわけではありませんが、本当に日本の未来に貢献しているかというと疑問であるということです。

 

これと似たような事は先ほども述べたような研究や検討調査などにも当てはまりますし、個人のレベルでいえば読書や人との交流なんかもこのような部分があると言えるのかもしれません。

 

目標、目標、ノルマ、ノルマ、で汲々と過ごすのも問題ではありますし、無用の用という言葉もあるように、一見無駄に見えるようなことであってもいずれ役に立つというものもあるかもしれません。

 

しかし、ここでいわんとしていることは、具体的な行動計画なく抽象的な目的のみを定めてその目的を達成したか否かにかかわらず、プロセス自体に満足してしまうことの危険性です。

 

こうして満足してしまえば、何らの結果が起こらなかったとしても、次に対する反省が生まれません。

 

そうすると、結果として何も残せないまま時だけが過ぎてしまうことになってしまいます。

 

ビジネスにしても人生にしても、何らかの目的意識を持って生きているのであれば、日々の活動においても場合には明確な行動指針を持った動きを続けることが必要といえるのではないでしょうか。